隠れキリシタン
長崎に今でも「隠れキリシタン」と呼ばれる人々がいるという特集をテレビで目にしました。江戸時代の厳しい弾圧が遠い過去となった今、もはや「隠れる」必要はないはずなのに、彼らは「隠す」という行為そのものを信仰の一部として大切にしているというのです。その静かな祈りの形に、時代を超えた信念の在り方を垣間見た気がしました。
この特集を見て、ふと20年ほど前に訪れたタイ北部の山岳民族の村での体験を思い出しました。当時の私は、若さと好奇心に突き動かされ、説明もないままトラックに乗り込んで向かうツアーに参加したのです。私のほかには、オランダの会計事務所に勤める30代のカップル、アメリカのIT企業で働くフィリピン出身の男性、兵役を終えたばかりのイスラエルの青年。言葉はほぼ英語でしたが、私の理解はおぼつかず、道中は首を傾げながらの山歩きでした。
夜、宿泊先の村で、子供たちが伝統舞踊を披露してくれました。そのお返しに「各国の歌を歌ってほしい」と頼まれ、基本的に音痴であまり歌を歌うのに慣れてもいない私は緊張しながら「大ちゃん音頭」を口ずさみました。その歌は周りの失笑を誘い、私も苦笑いするしかありませんでした。
その夜更け、ガイドが村について語り始めました。なんと、この村の住人たちはみなキリスト教徒だというのです。タイは伝統的に仏教国。しかもこのような山岳地帯では自然崇拝や精霊信仰が今も息づいていると思っていた私は驚きを隠せませんでした。
話によると、先進国のキリスト教団体が、教育や生活支援のために村に学校を建てたことが、信仰の広がりにつながったのだそうです。一方で、タイ政府からの文化保護支援も受けているため、表向きは民族衣装をまとい、観光客に伝統舞踊を披露することで、自らの文化を守り続けてもいるのです。信仰と文化、二つのアイデンティティが表裏一体となり、村人たちの日常に溶け込んでいました。
翌朝、ガイドが指差した家の屋根には、アンテナで作られた十字架がありました。隠すでもなく、主張するでもなく、ただそこにある信仰の象徴。その姿は、「隠れキリシタン」とは異なるものの、信仰と文化が自然に交差する静かな営みのように見えました。
文化や信仰は時に複雑に絡み合い、時代の波に洗われながらも、あるがままの姿で続いていくものなのかもしれません。今もあの村の風景は変わらず静かに時代を紡いでいることでしょう。